万葉代匠記
『 万葉代匠記 』
契沖
1690
日本近世哲学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "文学", "東洋文学", "日本文学", "古代・中世日本文学" ]

テーマ

万葉集

概要

『万葉集』の注釈・研究書。鎌倉時代の仙覺や元禄期の北村季吟に続いて、画期的な事業と評価されている。仏典漢籍の莫大な知識を補助に、著者の主観・思想を交えないという契沖の註釈と方法がもっともよく出ている代表作である。

目次

内容

1巻 雑歌 泊潮朝倉御宇天皇代(天皇)、高市岡本宮御宇天皇代(香具山に登る時の歌、中皇、讃岐国安益郡の時、戦の王、山を見て作る歌)、明日香川原御宇天皇代(額田王)、後岡本宮御宇天皇代(額田王、紀伊温泉、中皇命、中大兄)、近江国大津宮御宇天皇代(内大臣藤原朝臣、春山万花の艶と秋山千葉の彩を比べ憐れむ、額田王、近江国下る時の歌、井戸王和歌、皇太子誉御歌)、明日香清御原宮御宇天皇代(十市皇女、伊勢神宮を参る時、波多く横山岩吹くを見て作歌、麻績王、伊勢国伊良湖の島に流された時に於いて哀痛み作れる歌、感傷和歌、天皇御製歌)、藤原宮御宇天皇代、 大寶元年、2年 慶雲三年 和銅元年、3年、5年 2巻 相聞 難波高津宮御宇天皇代、近江大津宮御宇天皇代、明日香川原御宇天皇代、藤原宮御宇天皇代 挽歌 後岡本宮御宇天皇代、大寶元年、近江大津宮御宇天皇代、明日香川原御宇天皇代、藤原宮御宇天皇代、宮 和銅4年 霊亀元年 3巻 雑歌、比喩歌、挽歌 4巻 相聞 5巻 雑歌 6巻 雑歌 養老7年 神亀元年、2年、3年、4年、5年 天平2年、3年、4年、5年、6年、8年、9年、10年、11年、12年、15年、16年 7巻 雑歌、比喩歌、挽歌、羅旅歌 8巻 春雑歌、春相聞、夏雑歌、夏相聞、秋雑歌、秋相聞、冬雑歌、冬相聞 9巻 雑歌、比喩歌、挽歌 10巻 春雑歌、春相聞、夏雑歌、夏相聞、秋雑歌、秋相聞、冬雑歌、冬相聞 11巻 古今相聞往来歌類の上 12巻 古今相聞往来歌類の下 13巻 雑歌、相聞歌、問答歌、比喩歌、挽歌 14巻 東歌 15巻 天平8年 新羅国の遣使の悲別、贈答、及び、海上の上旅陳思作歌、並び、富所踊詠古歌 流罪に於いて嘆易、別離、各陳働情贈益歌 16巻 有由縁 並 雑歌 17巻 天平2年、10年、12年、13年、16年、18年、19年、20年 18巻 天平20年、 天平威寶元年 天平勝寶元年、2年 19年 天平勝寶2年、3年、4年、5年 20巻 天平勝寶5年、6年 天平勝寶7歳、8歳、9歳 天平寶字元年、2年、3年
契沖
契沖
日本

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "文学", "東洋文学", "日本文学", "古代・中世日本文学" ]

著者紹介

江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・善兵衛元全(もとたけ)は250石の尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。 第3子である契沖は、幼くして11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。 ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、その間に下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して、大和国の長谷寺にいたり17日間も絶食念誦し、室生寺では37日間、命を捨てようとしたほどの激しい煉行をした。 高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。 延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となると、以後亡くなるまで古典の研究に勤しんだ。『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』を著している。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えている。 元禄3年(1690年)に当寺で母が亡くなったのを機として、摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)に円珠庵を建立して住持となった。元禄14年(1701年)1月、円珠庵にて62歳で入寂。墓所は円珠庵にある。 なお、1891年(明治24年)に正四位を追贈されている。 徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書。1690年)をはじめ、『厚顔抄』、『古今余材抄』、『勢語臆断』、『源註拾遺』、『百人一首改観抄』、『和字正濫鈔』など数多く、その学績は実証的学問法を確立して国学の発展に寄与し古典研究史上、時代を画するものであった。