北畠顕家上奏文
『 北畠顕家上奏文 』
北畠顕家
1338
日本政治学

名著の概要

ジャンル

[ "政治学", "東洋政治学", "日本政治学", "日本中世・近代政治学" ]

テーマ

政治について

概要

顕家が石津の戦いで室町幕府執事高師直に敗れ戦死する一週間前に当たる。建武政権・南朝の政治における問題点を諫めたもので、文章の悲壮美と父の北畠親房を髣髴とさせる鋭敏な議論を併せ持つことから、南北朝時代を代表する政治思想文とされる。内容は、特に人事政策(例えば恩賞として官位を与える政策)に対する批判が現存箇所の半分近くを占め、その他では首都一極集中を批判し地方分権制を勧める条項が重要である。

目次

内容

諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事 官爵の登用を重んぜらるべき事 月卿雲客僧侶等の朝恩を定めらるべき事 臨時の行幸及び宴飲を閲かるべき事 法令を厳にせらるべき事 政道の益無く寓直の輩を除かるるべき事
北畠顕家
北畠顕家
日本

著者の概要

ジャンル

[ "政治学", "東洋政治学", "日本政治学", "日本中世・近代政治学" ]

著者紹介

鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍、贈従一位右大臣。 後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議に任じられて公卿に登り、建武の新政では、鎮守府大将軍として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。 やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、石津の戦いで奮戦の末に幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年満20歳。 政治思想家としても父と類似の才覚を持ち、戦死の一週間前に後醍醐天皇への諫言として著した『北畠顕家上奏文』は、美文かつ歴史的価値の高い史料とされている。後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。