南洲翁遺訓
『 南洲翁遺訓 』
西郷隆盛
1890
日本近代哲学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "その他日本哲学", "政治学", "東洋政治学", "日本近代政治学", "社会学", "東洋社会学", "日本近代社会学", "日本近代哲学" ]

テーマ

世界について 人間について 人生について 国家について 政治について

概要

『南洲翁遺訓』は旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものである。西郷の仇敵にあたる庄内藩の人たちが彼の言葉を残そうとしたのは、西郷のはからいにより庄内藩に寛大な処置がとられたから。その高潔な人格に感動した人々による編纂であり、「偉人・西郷隆盛」をイメージづける名言集。

目次

内容

1為政者の基本的姿勢と人材登用 2為政者がすすめる開化政策 3国の財政・会計 4外国交際 5天と人として踏むべき道 6聖賢・士大夫あるいは君子 「敬天愛人」 「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」 「児孫のために美田を買わず」 「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」 「急速は事を破り、寧耐は事を成す」 「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」 「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」 人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
西郷隆盛
西郷隆盛
日本

著者の概要

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[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "その他近世日本哲学", "政治学", "東洋政治学", "日本近代政治学", "社会学", "東洋社会学", "日本近代社会学", "日本近代哲学" ]

著者紹介

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。