古事記伝
『 古事記伝 』
本居宣長
1798
国学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "国学" ]

テーマ

古事記について 国学について 古道について 古代について

概要

江戸時代の国学者・本居宣長の『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書である。『記伝』と略される。34年もの歳月をかけて作成された本書は、、単に『古事記』一作の註釈書としてのみならず、のちの古代文学研究、あるいは古代史研究にも極めて大きな影響を及ぼしており、21世紀にあっても、『古事記』および古代文化研究の基本書としての地位を保ち続けている。

目次

内容

『古事記伝』は、『古事記』の当時の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する書誌学的手法により執筆されている。さらに古語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている(こうした書誌学的手法は宣長のみならず江戸期の学芸文化から現在の国文学・歴史学に到るまで行われており、『古事記』に関してはのちの倉野憲司『古事記全註釈』にも引き継がれている)。『記伝』全44巻のうち、巻一は「直毘霊」(ナホビノミタマ)を含む総論となっており、巻二では序文の注釈や神統譜、巻三から巻四十四までは本文の註釈に分かれている。 宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、近代的な意味での実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。国語学上の定説となっている上代特殊仮名遣も、宣長によって発見されたと評価されている。宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方や考え方の中に連綿と流れる一貫した精神性、即ち『道』(古道)の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。 古事記伝を離れて単独に古道を説いたものとしては、「直毘霊」・「葛花」・「玉くしげ」「秘本たまくしげ」 「伊勢ニ宮ささ竹の弁」等の著述がある。 彼が『古事記』を称揚した影響で、それまでは正史である『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』に対する評価は一変し、神典として祭り上げられるようになった。宣長は、『古事記』の註釈にあたって、本文に記述された伝承はすべて真実にあったことと信じ、「やまとごころ」を重視して儒教的な「からごころ」を退けるという態度を貫いた。
本居宣長
本居宣長
日本

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学" ]

著者紹介

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。 契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。 本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。 本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。 寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。 宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。 宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。 宣長は、一時は紀伊藩に仕えたが、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している