古史伝
『 古史伝 』
平田篤胤
1843
国学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "国学" ]

テーマ

古事記について 日本書紀について 国学について 古道について 古代について

概要

自ら著した『古史成文』についての自分自身による解釈本。本居宣長の『古事記伝』にならって、自身で古史(『古事記』・『日本書紀』)の文を採り交えて「神世」(=神話時代)の物語を書き纏めた本『古史成文』を1818年(文政元年)に出版した。「天地開闢」から「神代時代」に繰り広げられた様々な歴史の物語、と平田篤胤が考えるものを書き記したもので、上中下三巻に纏め上げて上梓した。

目次

内容

『古史成文』の神代巻は百六十五段あったが、この古史伝では、段ごとに詳細な注釈をくわえ、自説の解釈を施している。更に古史や、古言・古義などを調べる上で、便宜を図る為に補翼として『古史或問』を著し、後に『古史微』並びに『開題記(春夏秋冬)』と改題して、古伝説の本論、神世文字の論、古史ニ典の論に関しての自論を展開し、『記紀』、『古語拾遺』、『祝詞』、『新撰姓氏録』、『出雲国風土記』といった古文献資料類の中から古史に関連のある部分を参照引用し、神代巻に伝え来る物語の中で、遺漏や訛伝されたと思われる箇所などを補足訂正して補い、更に推敲を重ねて古史の解釈を施し日本の古代の有様をあきらかにしようと志したものである。古道学を通じて、神代の本来の姿や形(復古)(と平田篤胤が考えるもの)を知る事により、「古人の心情」(外来の思想が入り来る以前の純朴な心や姿形、と平田が考えるもの)に立ち戻る為の縁(よすが)とした。 篤胤が『古史伝』を起稿したのは、1810年(文化7年)、37歳の血気盛んな頃で、それから約13年を費やして、成文下巻の途中までの解釈をある程度完成させているが、第29巻以降百四十四段から最期の第37巻百六十四段までは未完に終った。 この未完であった『古史伝』は、篤胤の逝去後、後継者平田鐵胤(かねたね)の依頼を受諾した死後の門人である、愛媛出身の矢野玄道が1877年(明治10年)頃から起稿し、数年を費やして遂に完成させた。
平田篤胤
平田篤胤
日本

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "国学" ]

著者紹介

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった。妻の綾瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した。これは時代の流行語となった。 秋田藩士大和田祚胤の4男。8歳のとき漢学を中山青莪に,11歳で医学を叔父柳元に学び玄琢と称した。寛政7(1795)年,20歳のとき脱藩して江戸に出,5年後備中(岡山県)松山藩士平田藤兵衛篤穏の養子となった。 同年,宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した『呵妄書』を著したのが著述のはじめで,翌文化1(1804)年,真菅乃屋(同13年,気吹乃屋と改める)と号して講筵を開き3名の門人から出発した。 2年,『新鬼神論』を著して神,鬼神の普遍的存在を証明しようとした。4年から,医業を兼ね玄瑞と改めた。5年,神祇伯白川家より諸国神職らへの古学教授を委嘱される。 篤胤は8年ごろから『古道大意』『俗神道大意』『西籍慨論』『出定笑語』として,のちに刊行されるものの基となる講説を次々に行った。 9年に脱稿し翌年刊行された『霊能真柱』は,「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成を説いた。その際『古事記』の本文を改竄するなど宣長とは著しく異なる方法を採った。『霊能真柱』は宣長門人の間に波紋を呼んだ。 文政6(1823)年上京,著述を朝廷に献上し,和歌山の本居大平,松坂の本居春庭を訪ねた。同年,吉田家より神職への古道教授を委嘱された。のち尾張藩に接近して仕えたり,水戸藩への仕官を願い出るなどしたが,天保12(1841)年,その著作が幕府筋の忌むところとなり,著述差し止め国元帰還を命ぜられ,秋田藩士(15人扶持,給金10両)となったが,江戸帰還を果たせないまま失意のうちに没した。