呂氏春秋
『 呂氏春秋 』
呂不韋
-239
諸子百家

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "中国哲学" ]

テーマ

世界について 人間について 人生について

概要

中国の戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書物。『呂覧』(りょらん)ともいう。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。

目次

内容

呂氏春秋(呂覧)とは、中国の戦国時代末期、秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた十二紀・八覧・六論、26巻160篇から成る思想書。 「十二紀」(内篇):孟春、仲春、季春、孟夏、仲夏、季夏、孟秋、仲秋、季秋、孟冬、仲冬、季冬の各紀五篇と序意の計61篇 「八覧」(外篇) :有始、孝行、慎大、先識、審分、審応、離俗、恃君の各覧八篇(有始のみ七篇)の計63篇 「六論」(雑編) :開春、慎行、貴直、不苟、似順、士容の各論六篇の計36篇 その思想は儒家・道家を中心に、名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物であり、秦代思想史研究の唯一の資料とされている。書名の由来は1年12ヶ月を春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』、八覧から『呂覧』とされている。 呂不韋は食客3000人を従えていた戦国時代の最後を代表する宰相で、あの始皇帝の宰相を務めていました。(商人出身である呂不韋ですが、一説には秦の始皇帝の父であるという話しもあります) それまでは、人間の正しい生き方として「道」や「天」に従うべきであるといわれていたが、実際にどのように生きればいいのか漠然としていたため、呂不韋は儒家・道家・法家などの思想を取りまとめ、それを統一づけるものとして新しく「時令」という考え方を作り出した。 要は『呂氏春秋』という書物からもわかるように1年を春夏秋冬の四季に分け、更にそれを孟・仲・季の三節に分けて(1ヶ月単位)、各々の天文気候に沿って 人間の日常生活を規定し、それに従うようにすればよいとした。『呂氏春秋』はその多彩さゆえに「雑家」として分類されているが、実は人々をして自然の大道を知り、人倫実践の規範を悟らしめることを目的とした書。 様々な思想家の意見を取り入れて政治を行うことが理想的な姿であるとするのが「雑家」の立場だが、整然とした体系を持っていて、強力な編纂意図が感じられる『呂氏春秋』からは、多くの思想を集約して政治に活かそうと考えたことが伺われる。 呂不韋は秦の宰相という立場上、信賞必罰を主張する現実的な法家思想として君臣の在り方を説く八覧を『呂氏春秋』に取り入れながらも、戦国時代末期にあって人々が戦乱に疲弊し理想主義的な儒家思想を支持するようになっていたことから、徳治・礼治による理想主義的な儒家思想の影響が色濃く表れた内容となっている。 十二紀は、人の営みは天地の運行に従い行うべきという陰陽五行説の五要素(木火土金水)の考え方に基づいている。 また、四書五経の『礼記』の月令篇は、十二紀の孟春紀から季冬紀にいたる十二篇を集めて一篇にしたものといわれている。 更に十二紀の「仲夏紀」に含まれる四篇(大楽篇、侈楽篇、適音篇、古楽篇)と「季夏紀」に収められている三篇(音律篇、音初篇、制楽篇)については、音楽について論じられている。これらから、儒家の思想が基盤にあることがうかがえる。 一方、八覧を通して統一した主題となっているのは君臣統御の方法、君臣の心構えといった法家思想。 君主の人臣統御術、統治における勢の要件、国是の統一といった法家思想を説く審分覧 弁論と受け答えについて説く審応覧 賢者優遇の尚賢思想を説く下賢覧を含んだ慎大覧 法は時代・状況の推移に応じて変わるべきであるという典型的な法家思想を「刻舟求剣の故事」から説いている察今篇 ちなみに『呂氏春秋』においては人を観る方法として、六験八観というものが定義されている。人間を観る方法とは、自らに対して言えば反省することであり、他に対して言えば吟味すること。 【六験】 1.之を喜ばしめて、もってその守を験(ため)す→喜ばせて、節操の有無をはかる   2.之を楽しましめて、もってその僻を験す→楽しませて、偏った性癖をはかる   3.之を怒らしめて、もってその節を験す→怒らせて、節度の有無をはかる   4.之を懼(おそ)れしめて、もってその特(独)を験す→恐れさせて、自主性の有無をはかる 5.之を哀しましめて、もってその人を験す→悲しませて、人格をはかる 6.之を苦しましめて、もってその志を験す→苦しませて、志を放棄するかどうかをはかる 【八観】 1.貴(たか)ければ、その進むる所を観る→出世したら、どんな人間と交わるかを観る 2.富めば、その養う所を観る→豊かになったら、どんな人間を養うかを観る 3.聴けば、その行なう所を観る→善いことを聞いたら、それを実行するかを観る 4.習えば、その言う所を観る→習熟したら、発言を観る 5.止(いた)れば、その好む所を観る→一人前になったら、何を好むかを観る 6.窮すれば、その受けざる所を観る→貧乏になったら、何を受け取らないかを観る 7.賤(せん)なれば、その為さざる所を観る→落ちぶれたら、何をしないかを観る 8.通ずれば、その礼する所を観る→昇進したら、お礼を仕事で返すかどうかを観る
呂不韋
呂不韋
中国

著者の概要

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[ "哲学", "東洋哲学", "中国哲学", "諸子百家" ]

著者紹介

中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で丞相として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。 呂不韋の出身地は二説あり、韓の陽翟(『史記』呂不韋列伝)と衛の濮陽(『戦国策』)とである。商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き、商売で富を築いた。 趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ)」と言ったとされる。 呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めた。 趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めている。 呂不韋は趙の婦人(趙姫)を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていない。 紀元前252年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものがなかった。 紀元前246年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。 紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている。 この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3,000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯がおり、その才能を見込んで王に推挙した。 更に客の知識を集めて、紀元前239年には『呂氏春秋』と言う書物を完成させた。これは当時の諸子百家の書物とは違って、思想的には中立で百科事典のような書物である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える」と触れ回ったという(一字千金の由来)。 権勢並ぶものがない呂不韋は、政の生母である太后(趙姫)と密通していた。 これは元々好色で、荘襄王の死後に男なしでは居られなくなった太后からの誘いであった。呂不韋としても、元愛人であった太后への未練を断ち切れず、関係を戻したのである。しかし、政が成長するにつれて、今や国母となった太后との不義密通を続けるのはいくらなんでも危ないと感じた呂不韋は、嫪毐(ろうあい)という巨根の男を太后に紹介しただけでなく、男性の入れぬ後宮へ、宦官に偽装して送り込んだ。太后は嫪毐の巨根に夢中になり、息子を2人生んだ。 その後の嫪毐は、太后の寵愛を背景に長信侯に封じられて権勢を得たものの、所詮巨根だけで成り上がった男でしかなかった。やがて太后との密通が発覚すると嫪毐は政に対し謀反を起こし、窮地を乗り切ろうとする。 だが、嫪毐の反乱はすぐに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑で誅殺された。また、嫪毐の2人の息子も処刑され、太后は幽閉された。この一件は呂不韋へも波及。連座制に則り、処刑されるところだったが、今までの功績を重んじた政によって、丞相職の罷免と蟄居に減刑された。 しかし、呂不韋は蟄居後であっても客との交流を止めず、諸国での名声も高かった。そのため、政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと危惧し、紀元前235年に政からの詰問状を受けた。 「君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀! (秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。)」— 史記「呂不韋列伝」14 そして、呂不韋は蜀地域への流刑を追加されたことで、自らの末路に絶望し、鴆酒を仰いで自殺した。