意志と表象としての世界
『 意志と表象としての世界 』
ショーペンハウアー
1819
西洋近代哲学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "西洋哲学", "西洋近代哲学" ]

テーマ

世界とは何か 観念について 認識について 意志について 表象について イデアについて

概要

カントを受けつぎ、世界を意志と表象で構成されるものとした観念論の名著。 世界は私の意志と表象である。我々の表象としての世界は「根拠の原理」という変換装置を介して認識されており、これには4つの原理があことを示す。 そして、世界の全ての表象は、無根拠にたえまなく終わることのない努力、すなわち意志し続けているのである。この意志は、イデアとして我々の表象にその性質を現す際に「段階」を示す。

目次

第一巻「表象としての世界の第一考察」 ~根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観~[注 4] 第1節 世界はわたしの表象である。 第2節 主観と客観は直かに境界を接している。 第3節 根拠の原理の一形態としての時間。 世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。 第4節 物質とは働きであり、因果性である。 直観能力としての悟性。 第5節 外界の実在性に関するばかげた論争。 夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。 第6節 身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間のみである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは仮象である。とくに仮象の実例。 第7節 われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物の出現に依存している。シェリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。 第8節 理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。人間と動物の相違。言葉、行動。 第9節 概念の範囲と組み合わせ。論理学について。 第10節 理性が知と科学を基礎づける。 第11節 感情について。 第12節 理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害にあることがある。 第13節 笑いについて。 第14節 一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を土台にしている。 第15節 数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。 第16節 カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけではなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。 第二巻「意志としての世界の第一考察」 ~すなわち意志の客観化~ 第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち原因論的な説明の及びうる範囲。 第18節 身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも身体を媒介として行われる。 第19節 身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志でもあるとして二重に意識されている。 第20節 人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や性格に対応している。 第21節 身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。 第22節 従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、 われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考える。 第23節 意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要ではない。 第24節 どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」として残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの自然観。 第25節 意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。 第26節 合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。 第27節 元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間にも親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとする闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとするヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存の道具として現われる。認識の出現とともに表象としての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われる。 第28節 意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって 無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえている。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後から出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や動物の本能の実例。 第29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。 第三巻「表象としての世界の第二考察」 ~根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観~ 第30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。 第31節 カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に一致している。 第32節 プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点においてカントの物自体と相違する。 第33節 認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上にのっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から脱却する特別の事例がありうる。 第34節 永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体であることをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な認識主観であらねばならない。 第35節 イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在でしかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも間違いである。 第36節 イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。 天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。 天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションについて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。 狂気の本質に関する諸考察。 第37節 普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。 第38節 対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められるという主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現したときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オランダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。 第39節 崇高感について。 第40節 魅惑的なものについて。 第41節 美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、 無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美はある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。 第42節 イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を追って、以下各芸術を検討していきたい。 第43節 建築美術と水道美術について。 第44節 造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。 第45節 人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。 第46節 ラオコーン論。 第47節 美と優美とは彫刻の主たる対象である。 第48節 歴史画について。 第49節 イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるのは概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念を起点とする。 第50節 造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標章について。詩文芸における寓意について。 第51節 詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の3つの分類。 第52節 音楽について。 第四巻「意志としての世界の第二考察」 ~自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定~ 第53節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。 第54節 死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びても全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死の恐怖は錯覚である。 第55節 人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決定づけられている。 第56節 意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべての生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。 第57節 人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の言い逃れを見つけようとしたがる。 第58節 われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り出した。 第59節 人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないというこのことこそが常態である。人間はつねに自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。 第60節 性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定することであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有される。 第61節 意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外のすべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定から人間のエゴイズムの根拠が説明できる。 第62節 正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。 第63節 マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越したところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダのウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の神話に通じるものがある。 第64節 並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に抗して刑死する反逆者と、――人間本性の二つの注目すべき特徴。 第65節 真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはならないこと。善は相対概念である。 第66節 徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでもない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。 エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれから解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。 第67節 他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣くのは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわち同情(慈悲)である。 第68節 真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。 普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力がある。 第69節 意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別の例外がある。 第70節 完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなしに、認識の転換に由来することにある。キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグスティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、わたしの教説とも内的に一致している。 第71節 いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。 意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが 存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。

内容

世界は私の意志と表象である。我々の表象としての世界は「根拠の原理」という変換装置を介して認識されており、これには4つの原理がある。その4つの原理とはすなわち①生成の根拠の原理、すなわち因果の法則。②認識の根拠の原理、すなわち論理法則。③存在の根拠の原理、すなわち時間・空間の純粋直観。④行為の根拠の原理、すなわち動機付けの法則である。 根拠の原理は、この表象としての世界を説明する全てである。すなわち、この世界に生ずる現象はすべてこの根拠の原理から成っているのであり、科学のすべての導きの糸にもなっている。いいかえると、この世界に生ずるあらゆる事物に例えば「何故?」とその根拠を問うなら、それは最終的に、この根拠の原理の4つのどれかにたどり着かざるを得ないということになる。 世界の全ての表象は、無根拠にたえまなく終わることのない努力、すなわち意志し続けているのである。この意志は、イデアとして我々の表象にその性質を現す際に「段階」を示す。ショーペンハウアーは、意志がこの現実世界にその性質をにじみ出す際、そこに段階があることを見抜き、それを「高位のイデア」「低位のイデア」などと呼んだ。 例えば最も下位のイデアを示す段階が、自然法則(例えば重力)などである。そして中位のイデアを示す段階が「植物」、高位のイデアを示す段階が「動物」、そして最高位のイデアを示す段階が我々「人間」である。 イデアが低位から高位になるに従い、その表象としての現れ方は複雑さを増していく。 最低位のイデアである重力が意志することと言えば、それは絶え間ない落下である。あまりにも純粋無垢な、落下という性質である。重力のイデアの現れは、ただ無根拠に落下させようとする意志である。このあまりの純粋無垢さゆえ、決められた仕事を真っすぐこなす低位のイデアであるという性質故に、低位のイデアはことごとく定式化することが出来るのである。こうして定式化されたものが「自然法則」に他ならない。
ショーペンハウアー
ショーペンハウアー
ドイツ

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "西洋哲学", "西洋近代哲学" ]

著者紹介

ドイツの哲学者。カント直系を自任しながら、世界を表象とみなして、その根底にはたらく〈盲目的な生存意志〉を説いた。この意志のゆえに経験的な事象はすべて非合理でありこの世界は最悪、人間生活においては意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の諦観・絶滅以外にないと説いた。この厭世観的思想は、19世紀後半にドイツに流行し、ニーチェを介して非合理主義の源流となった。当時支配的だったヘーゲル哲学に圧倒されてなかなか世間に受け入れられなかったが、彼の思想は後世の哲学者や文学者、とりわけニーチェ、ワーグナー、トーマス=マンらに大きな影響をあたえている。また、仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、日本でも森鴎外をはじめ、堀辰雄、萩原朔太郎、筒井康隆など多くの作家に影響を及ぼした。