擬対策
『 擬対策 』
山田方谷
1853
日本近世哲学

名著の概要

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[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "財政論", "政治学", "東洋政治学", "日本政治学", "日本近世政治学" ]

テーマ

政治について 財政について 経済について

概要

士が利を好み、徳なき政を行っていることへの警鐘を行った山田方谷の政治論である。徳川幕府開設より約200年、徳によって治められていたはずの政治は腐敗し、どの藩も財政に悩んでいる。これを解決するには、君主と重臣が心を一つにし、自らを深く自省し、状況を正確に把握した上で一つ一つ確実に改めていく必要があることを論じた。

目次

内容

本書の題名は、科挙の最終の試験「殿試」に由来する。殿試は、天子が自ら出題し、審査する建て前であり、「策題」は古今政治の得失を大所高所から論評させる内容のもので、その答案を「対策」という。従ってこの文章は、方谷が自ら「現今の世相を論ぜよ」と云う策題を提起して答案も書いた文という意味となる。 つつしんで考えるに、烈租家康公が天与の勇智を持って幕府を開設されてより、その位を伝え、百世続く制度を定められてから、次々とそれが伝承されて来た。専ら租宗の制度を遵守して、昔からの法を誤ることなく、國家の大法は整然と秩序立ち、政令は明らかであつたので、四方の國々は喜んで服従し、四海波立たず、二百年を経過したのである。強化があまねく隅々まで行きわたつている、とまでは云えないが、常日頃守るべき道徳が沈み滅んだことはない。 恩恵が充分広まった、とまでは云えないが、村里に嘆きの声は聞かれない。刑罰を廃止できる、とまでは云えないが、盗賊が民衆を害することはない。外國の勢いが盛んではあるが、その烽火(のろし)が我が塞(とりで)を犯したことはない。実に泰平盛治の極みであつて、指摘すべき少しの問題もない。現在より良い時代は、未だ曽て無かつたと云える。見識の低い士族達は之をみて、太平の世に何の虞れもないとして易の戒めに思い及ぶ者も居ない。賢明な主君が、それを心配されて 謀り問われ、諫言の道を開かれたのは当然のことだったのだ。それでは、何に基いて衰乱の兆候を見られたのであろうか。私は一心に考え、深く推察してみた。現時点で、十中八、九その兆候と見られることは、ただ一つ、天下の士族の風紀が衰え廃れている事であろう。かって、 水先生司馬氏(司馬光)は東漢のことを論じて「風俗は天下の大事である。しかるに凡庸な君主は之をないがしろにする。」と云った。又、蘇子膽(蘇東波)は「天下の患いで、最も避けねばならないことは、表面は太平無事で、実体には不測の変事をもつことである。」と云っている。 私の見る処、風俗の衰えは今日極限に来ており、避けねばならぬ患ひが今より甚だしいことはない。その理由を詳しく論じてみよう。 國民を士農工商の四つに区分する制度の理由は久しい。そして各階層は各々その仕事を勤めてその利で食べている。ただ士族だけは利を生む事は何もせず、人民から取り上げて生活し、しかも全体の上に位している。それは多分その仕事が大きいことだからであろう。大とは何か、それは義である。即ち士族の勤めるのは義、民の勤めは利であり、義と利に分れていることが、士と民とを区別する理由なのである。 抑々、わが國は東方、大海の表にひとり抜きんでて立ち、万國に冠たるものがあり、國民は東方精華の気をうけて生れている。その為、その本性は厳毅決烈、士は剛直で義を尚ぶ。それはすべて、この天賦の自然から出ているのである。「大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ、危キヲ見テ命ヲ致ス」と云う孔門の諸賢人が士君子の事としていることを、わが國の士は教えられずして知り、習わずして良く行うのである。 苟(いやしく)も人民の教化を司る者であれば、どうして、その気風を尊愛養育しないことがあろうか。であるから、幕府開設の当初、烈祖家康公は、その聖武の徳によつて民衆の中に起ち、先ず節義の士を尚び、一般の人々を励まし用い、その数を増やしてゆくことによつて、士風が益々振ったのである。厚く信義を尚び、財・利について口にすることを恥じ、事に臨んで回避したり、畏れ憚る者を卑怯者と笑い、欲深で吝嗇な者や、人に媚び諂(へつら)う者は汚たならしい人間として斥けた。公の府に阿諛追従の言は無く、家には私的な追従や依頼などは無く、廉直剛毅な士風は眞に秀いでていた。天がこヽに太平の象徴を開いたことは決して偶然ではなかつた。 それ以来、世の太平は久しく続いて、士風も気風も日々弱まり、今日ではその弊害が正に極まってしまった。軟弱で外面を飾り、人頼みや諂いが士風の常態となつている。策を講じて縁をつてに頼みこむのが仕官の方策となり、僅かな利害にもついたり離れたり、全く抜け目がない。それを自分では巧くやったと思っている。偶々剛直な士が出ると、愚図とか古くさいとか貶したり軽蔑したりする。あヽ。古今がそんなに隔たっているわけでもないのに。 士風がこのようにひどく変化してしまつたのは、他でもない、昔の士は義を尚んだが、今の士は利(・)を好み、自分達士族の努めるべきことが何なのかを見失っているからである。そも  義と利とは両立しないものである。利を貪る気持が心中にゆきわたると、必ず義の在り処がわからなくなる。義の在り処がわからなければ、自分を愛する心が日に日に強くなり、國を憂うる心は日に日に薄くなる。太平無事が続くと、諂うことで地位を盗み、政事を明かにしなくなる。 たとえ一つ二つ良い事をしても、すべては自分の名を衒(てら)い、誉れを売りたい私心からでることで、眞心から國を思つてのことではない。その弊害はもう我慢できない程になっている。これで、もし一旦緩急の大事に臨んだら、果して何をするのであろうか。およそ、主君が士(・)を養うのは、単なる使い走りである筈がない。自分の股昿、腹心として用い、國の為に何かをしたいと眞心から願ってのことである。しかるに使われる人の実態がこの有様では、人民の膏血を絞つて無用の人間を養うことになる。そうではあるまいか。 悪ははびこり易いものである。幕府開設以来今まで僅か二百年程で、士風がこんなにも移り変っているのだから、今、之を改めなければ、百年後にはどう変わってしまうか、全く予測できない。士崩瓦解(註3)の憂いが一度生じ、履霜堅氷の禍がついで起れば、如何なる智者がいてもどうすることも出来ない。詩經に「潜ンデ伏スト雖モ、孔之ナリ、思ハザルベケンヤ」とある。それ故、私は今日衰乱の兆候となっていることは、必ず、これまで述べた処に存在していると考える。 さて、風俗の変化や利を好む心、それは政治や教育がそうさせるのだ、と云うが、詳細にその由来を推察してみると、原因の大部分は財政が窮乏し、士太夫が皆、貧を患い憂いている事にのみあるのだ。何故か、又、論じてみよう。 今日、日本の藩國は百単位で数えられるが、財政収支が償い、更に三年間の蓄積を有つ処は、暁の星の如く寥々たるもので、反対に支出が収入の倍もあって、当座を借戝で取繕っている処が十中七、八である。しかも、この患いのある藩が、それを戝務の基本に反しているとは知らず、その場凌ぎの小手先の術を重んじて借戝や税金の取立てに凡ゆる手段を講じている。卑しい貪欲さで利を上げる説ばかり盛んで、心を堅固に保ち義を尚ぶ気風は滅んでしまつた。このような風潮に敏な者達が有能とされ、之に異議を唱えるものは世事に疎い者として斥けられる。 業績や人事の考課もまた多分この考え方であろう。そこで、商売根性や汚い濁つた風潮が武士仲間に入り込み、伴なってつぎつぎと大河の流れのようになって、利害を争う巷を奔走する。それは主に此れに原因があり、勢いの赴く処、止むを得ない面もあるのだ。私はそこで思った。士風の衰えは、必ず戝政の窮乏に原因がある。苟も士風の衰えを憂慮するなら、戝政窮乏を救う方策を講じなければならない。その方策は他でもない、その根本を止め、源を塞ぐだけである。 私は以前此れについて論じたことがある。烈租家康公が大いに諸候を藩土に封じ封建制となって以来、諸侯はそれぞれの國造りを始めた。藩土の大小、地味の肥磽、それぞれ異なるが、自らの藩の分度に応じた制度を定めたので、戝庫が空になって國用が不足することなど、あり得なかつた。その上、幕府初期には、兵役や築城等の出費が現在の数倍どころではなったが、戝用は足り、今のように借金で取繕うような悪習があったなど聞いていない。 それから二百四十年、藩土が昔より減ったのでも、参勤や報告が多くなつたのでも家臣へのほう扶持が非常に高くなつたのでも、ない。遠征や戦役の費用の必要など一度もない。然るに、昔は戝用が足り、現在は窮乏していない処はない。どうして本源が無いことがあろうか。 そこで、私なりにその本源を探ってみたが、ただ、賄賂が公然と行われている事と、身分に過ぎた奢りが盛んである事、の二つ以外にはなかった。常に天下に何の心配もない間に醸成され、必ず国家衰乱の禍を招来する。これは昔からの明確な戒めであって、今日でも證拠立てて明きらかにできるのである。この二つの弊害を除かなければ、戝政の窮乏を救うことはできないし、戝政の窮乏が救えなければ、士風の衰えを振起することは出来ず、士風振起ができなければ、國の衰乱の兆候は決して止められず、如何なる変事が起きるかも知れないのである。こうした弊害が現われるまでには長い経緯(いきさつ)があったし、今後に及ぼす影響は深刻なものがある。 之を改める方策は、ただ一つ、賢明な主君と執政の大臣とが、心を協せ思いを同じくして深刻に反省し、且つ実態を正しく把握した上で、時々刻々、一つ一つ、すべてを改め正してゆくしかない。そうして始めて、溜まりに溜まった悪弊と汚れを一掃できるのである。 これ以上、私がくどくど云う必要はないので、大体の要点だけ述べる。 懸命な君主が大綱を把握し、物静かで欲が少なく、嗜好の欲を抑えて、はじめて天下の奢靡を止めることができる。 重臣が方正廉潔で、自宅で人を謁見することを止めて、はじめて天下に横行する賄賂を禁止することができる。 明主と重臣とは実に天下善悪の根元であつて、すべての人民が、上の好む処に従うこと、響きが応ずるより速やかである。 そして、この二つの弊害が、古くから始まり、先々深まるものであるとしても、一朝にして改めることができるのである。 真心からこの事に留意し、天下の基本は皆、此れにあることを知って、身を修め、心を正して万民の上に立ち、倦まず弛まず努めること、唐虞三代の繁栄も此以外ではない。衰乱を何で思い患うことがあろうか。実に天下万世にわたる大幸でもあるのだ。
山田方谷
山田方谷
日本

著者の概要

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著者紹介

幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。 山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、元文4年末、長百姓で造り酒屋だった曽祖父益昌が遺書を書いて、長男を勝手に坊主にした定光寺の住職を殺し自害して、財産没収の上、所払いとなる。長男は難を逃れ浄福寺の十二世空山恵林和尚になり、次男の官次郎達は二十年程流浪の生活を送り、許されて戻って来て方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。 方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。 理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。 擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。 これらの方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。 1.藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。 2.大坂の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。 3.家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も他人に任せ率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。 4.多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。 5.領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。 6.これら特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(蒸気船「快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄も、この航海演習に参加したことがあるという。その後、布教に訪れている。)。 7.藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や町人出身でも藩士へ取立てた。 8.桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。 9.目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。 10.犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。 11.下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。しかし武士の反発は強く命を狙われたり、自らも長瀬に移住し開墾した。 12.「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。 方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。雄藩に準ずるほどの大規模な藩政改革を行い、のちの長州藩等の手本になるものもあり、当時としては画期的な政策であった。 反対意見も多かったが藩主、板倉勝静の「方谷の言う事は私の言葉。」という様な信頼関係の下に行われた。 谷の「理財論」と「擬対策」は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展し、三島が拓いた私塾である二松学舎を通して渋沢栄一を初めとする関係者たちに伝えられ、彼らを通して日本の財界に深い影響を与えることになった。 至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという。のち至誠惻怛の精神は福西志計子らを通して石井十次、留岡幸助、山室軍平、中島重らに影響を与えていった。それはとりもなおさず、日本の福祉の歴史においても大きな影響を与えたことを意味する。 なお、大政奉還の草案を起草した。