淮南子
『 淮南子 』
劉安
紀元前2世紀
諸子百家

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "中国哲学", "諸子百家" ]

テーマ

世界について 人間について 人生について

概要

前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

目次

巻一 原道訓 巻二 俶真訓 「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」は『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。) 巻三 天文訓 巻四 墬形訓 (地形訓とも。「墬」は「地」に同じ、「墜」や「堕」とは別字) 古代の地理観を記す。36の異国の記載(海外三十六国)には伝説的な内容が含まれる。 巻五 時則訓 巻六 覧冥訓 巻七 精神訓 巻八 本経訓 巻九 主術訓 巻十 繆称訓 巻十一 斉俗訓 巻十二 道応訓 巻十三 氾論訓 巻十四 詮言訓 巻十五 兵略訓 巻十六 説山訓 巻十七 説林訓 巻十八 人間訓 巻十九 脩務訓 巻二十 泰族訓 巻二十一 要略

内容

本書は,道家の〈道〉の思想を中核として,彼らの保有する該博な知識をあまねく結集して編纂したもの。元来は単に〈内書〉と称され,〈鴻烈〉と美称された。 その内容は,《老子》の〈道〉と《荘子》の〈真〉の思想を依拠として,現実世界の根源を論述する〈原道〉〈俶真〉2編に始まり,次いで,その根源から現実世界が形成され変化するありさまを,天人相関説と陰陽五行説の理論に基づいて論述する〈天文〉〈地形〉〈時則〉3編を配し,以下,現実世界の諸相を政治論,人生論から戦略論などにわたって,無為・清静と外界への因循を旨とする道家思想を基調に,儒家・法家を初めとする諸子百家の思想を援引しつつ,多様多角にして重複をいとわぬ論弁によって汎論するものである。
劉安
劉安
中国

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "中国哲学", "諸子百家" ]

著者紹介

前漢の皇族・学者である。淮南王に封じられた。『淮南子』の主著者。後世、劉安に関する多くの伝説が生まれた。 漢の高祖劉邦の七男の淮南厲王劉長の長男。劉不害(劉建の父)・劉遷の父。 紀元前174年、父の劉長は柴奇の謀反に加わったとして流罪となりその地で絶食死したが、劉長の4人の子は文帝によってすべて列侯に封ぜられた。劉安も紀元前172年に阜陵侯となり、ついで紀元前164年には淮南王に転じた。 景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配をしたため、劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。 しかし、劉安は以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。劉安は景帝を継いだ武帝の匈奴討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった。これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削減されたことで、劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。 劉安の著書『淮南子』の「泰族訓」には「桀紂を王とはしない。湯武を放伐したとはしない」という記述がある。これは殷周革命を肯定する孟子の説と同様である。続く文章でも君主の無道を武力で諫めることの正統性を主張していた。 劉安は学問を愛し、書や琴を好んだ。多くの食客を抱え、方術の士を招いたという。彼らとともに道家・儒家・法家・陰陽家のなどの諸説・思想を収集して編纂し、内書21篇、中書8篇、外書23篇を著して「鴻烈」と命名した。そのうちの内書が今日『淮南子』として知られる。