『 源氏物語玉の小櫛 』
1799
国学
名著の概要
ジャンル
[
"哲学",
"東洋哲学",
"日本哲学",
"日本近世哲学",
"国学"
]
テーマ
源氏物語について
古道について
古代について
もののあはれについて
概要
『源氏物語』の注釈書である。「もののあはれ」を提唱したことで知られる。全9巻。全体として本居宣長の長年にわたる『源氏物語』研究の集大成というべきものである。本書により、『源氏物語』が、それまでの中世的な伝承に支配された好色の戒め説や、仏典との関わりから解き放たれ、物語として読むことが出来るようになった意義は大きい。近代源氏学の基礎を築いたといえる書であり、これ以後の『源氏物語』研究を「新注」と言い、それ以前(古注または旧注)と分ける。
目次
第1巻 総論1
第2巻 総論2 「もののあはれ」とは何かを説く。
第3巻 年立論
第4巻 本文の校勘 『湖月抄』を元に河内本等の異文との比較を行っている。
第6巻 各巻の注釈1
第7巻 各巻の注釈2
第8巻 各巻の注釈3
第9巻 各巻の注釈4
内容
この宣長独自の物語論は、『源氏物語』を中世以来の道徳的文学観から解放した画期的な文学論として高く評価されており、この『源氏物語玉の小櫛』を、『源氏物語』研究の流れの、ひとつの節目と捉える研究者もいる。なお、「物のあはれ」説は、本書以前に1763年(宝暦13年)に完成した『紫文要領』及び第2の歌論書である『石上私淑言』で既に詳述されているものであるが、それらと比較したとき、広く公刊された本書『源氏物語玉の小櫛』の記述はむしろ抑制されたものになっているとされることもある。
第一巻
すべての物語書のこと
此源氏の物語の作り主
紫式部の事
作れるゆえよし
作れる時世
此物語の名の事
准拠
くさぐさの事
注釈
引歌というものの事
湖月抄のこと
おおむね
第二巻
なほおおむね
くさぐさのこころばへ
宣長は、この総論部分において「物語」の正しい理解が、『源氏物語』の正しい理解につながると考え、特に「蛍巻」に書かれた光源氏と玉鬘2人の「物語」論を精密に分析している。その結果、「此段のこゝろ明らかならざれば、源氏物語一部のむね、あきらかならず」としており、この『源氏物語』の根底にあるのは何か。宣長は「物のあはれ」だという。「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を感ぜしめむと作れる物」であり、そこに儒仏の倫理観を持ち込んでも意味がないことを主張する。
本居宣長
日本
著者の概要
ジャンル
[
"哲学",
"東洋哲学",
"日本哲学",
"日本近世哲学"
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著者紹介
江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。
本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。
寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。
宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。
宣長は、一時は紀伊藩に仕えたが、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している