玉勝間
『 玉勝間 』
本居宣長
1812
国学

名著の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学", "国学" ]

テーマ

世界について 人間について 人生について

概要

本居宣長の随筆。宣長が古典研究で得た知識を収録し、有職故実や語源の考証、談話・聞書抄録など多様の分野にわたる学問・思想についての見解を述べたもので、1793年より起稿し、1801年(享和元年)までの記事を載せ、その後推敲を重ねて完成したものである。宣長の50年に及ぶ研究の成果の全てが表れた名著。

目次

【目次】 玉賀都萬一の巻 巻頭歌 初若菜  1 あがたゐのうしは古ヘ學のおやなる事  2 わたくしに記せる史  3 儒者の皇國の事をばしらずとてある事  4 古書どものこと  5 また  6 また  7 又  8 また  9 また  10 もろこしぶみをもよむべき事  11 學問して道をしる事  12 がくもん  13 からごゝろ  14 おかしとをかしと二つある事  15 東宮をたがひにゆづりて  16 漢意  17 又  18 言をもじといふ事  19 あらたなる説を出す事  20 音便の事  21 からうたのよみざま  22 大神宮の茅葺なる説  23 清水寺の敬月ほうしが歌の事 玉かつま二の巻 櫻の落葉  24 兩部唯一といふ事  25 道にかなはぬ世中のしわざ  26 道をおこなふさだ  27 から國聖人の世の祥瑞といふもの  28 姓氏の事  29 又  30 神典のときざま  31 ふみよむことのたとへ  32 あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事  33 又  34 儒者名をみだる事  35 松嶋の日記といふ物  36 ふみども今はえやすくなれる事  37 おのが物まなびの有しやう  38 あがたゐのうしの御さとし言  39 おのれあがたゐの大人の敎をうけしやう  40 師の説になづまざる事  41 わがをしへ子にいましめおくやう  42 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事 玉かつま三の巻 たちばな  43 から國にて孔丘が名をいむ事  44 から人のおやのおもひに身をやつす事  45 富貴をねがはざるをよき事にする諭ひ  46 神の御ふみをとける世々のさま 玉勝間四の巻 わすれ草  47 故郷  48 うき世  49 世の人かざりにはからるゝたとひ  50 ひとむきにかたよることの論ひ  51 前後と説のかはる事  52 人のうせたる後のわざ  53 櫻を花といふ事  54 為兼卿の歌の事  55 もろこしの經書といふものの説とりどりなる事  56 もろこし人の説こちたくくだくだしき事  57 初學の詩つくるべきやうを敎ヘたる説  58 歌は詞をえらぶべき事  59 兼好法師が詞のあげつらひ  60 うはべをつくる世のならひ  61 學者のまづかたきふしをとふ事 たまかつま五の巻 枯野のすゝき  62 あやしき事の説  63 歌の道 さくら花  64 いせ物語眞名本の事  65 いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ  66 業平ノ朝臣のいまはの言の葉 玉かつま六の巻 からあゐ  67 書うつし物かく事  68 手かく事  69 業平ノ朝臣の月やあらぬてふ歌のこゝろ  70 縣居大人の傳  71 花のさだめ  72 玉あられ  73 かなづかひ  74 古き名どころを尋ぬる事  75 天の下の政神事をさきとせられし事 たまかつま七の巻 ふぢなみ  76 神社の祭る神をしらまほしくする事  77 おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事  78 皇孫天孫と申す御号  79 神わざのおとろへのなげかはしき事  80 よの人の神社は物さびたるをたふとしとする事  81 唐の國人あだし國あることをしらざりし事  82 おらんだといふ國のまなび  83 もろこしになきこと  84 ある人の言  85 土佐國に火葬なし  86 はまなのはし  87 おのれとり分て人につたふべきふしなき事  88 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事  89 道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事  90 香をきくといふは俗言なる事  91 もろこしに名高き物しり人の佛法を信じたりし事  92 世の人佛の道に心のよりやすき事  93 ゐなかにいにしへの雅言ののこれる事 玉かつま八の巻 萩の下葉  94 ゐなかに古ヘのわざののこれる事  95 ふるき物またそのかたをいつはり作る事  96 言の然いふ本の意をしらまほしくする事  97 今の人の歌文ひがことおほき事  98 歌もふみもよくとゝのふはかたき事  99 こうさく くわいどく 聞書  100 枕詞  101 もろこしの國に丙吉といひし人の事  102 周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢たりといへる事  103 藤谷ノ成章といひし人の事  104 ある人のいへること  105 らくがき らくしゅ 玉勝間九の巻 花の雪  106 道のひめこと  107 契沖が歌をとけるやう  108 つねに異なる字音のことば  109 八百萬ノ神といふを書紀に八十萬ノ神と記されたる事  110 人ノ名を文字音にいふ事  111 神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事 たまかつま十の巻 山菅  112 物まなびのこゝろばへ  113 いにしへよりつたはれる事の絶るをかなしむ事  114 もろもろの物のことをよくしるしたる書あらまほしき事  115 譬ヘといふものの事  116 物をときさとす事  117 源氏物語をよむことのたとへ  118 さらしなのにきに見えたること  119 おのが帰雁のうた  120 師をとるといふ事 玉勝間十一の巻 さねかづら  121 人のうまるゝはじめ死て後の事  122 うひ学びの輩の歌よむさま  123 後の世ははづかしきものなる事  124 うたを思ふほどにあること  125 假字のさだ  126 皇國の学者のあやしき癖  127 万葉集をよむこゝろばへ  128 足ことをしるといふ事 玉かつま十二の巻 やまぶき  129 又妹背山  130 俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事  131 物しり人もののことわりを論ずるやう  132 歌に六義といふ事  133 物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事  134 八景といふ事  135 よはひの賀に歌を多く集むる事 なき跡にいしぶみをたつる事  136 金銀ほしからぬかほする事  137 雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること 玉勝間十三の巻 おもひ草  138 しづかなる山林をすみよしといふ事  139 おのが京のやどりの事  140 しちすつの濁音の事 玉かつま十四の巻 つらつら椿  141 一言一行によりてひとのよしあしきをさだむる事  142 今の世の名の事  143 絵の事  144 又  145 又  146 又  147 また  148 漢ふみにしるせる事みだりに信ずまじき事  149 世の中の萬の事は皆神の御しわざなる事  150 聖人を尊む事  151 ト筮  152 から人の語かしこくいひとれること  153 論語  154 又  155 又  156 はやる  157 人のうまれつきさまざまある事  158 紙の用  159 古より後世のまされる事  160 名所  161 教誡  162 孟子  163 如是我聞  164 佛道  165 世の人まことのみちにこゝろつかざる事  166 宋の代 明の代  167 天  168 國を治むるかたの学問  169 漢籍の説と皇の古伝説とのたとへ  170 米粒を佛法ぼさつなどいひならへる事  171 世の人のこざかしきこといふをよしとする事  172 假字  173 から國の詞つかひ  174 佛經の文  175 神のめぐみ  176 道

内容

主な内容 ●「あがたゐのうしは古へ学のおやなる事」 いにしえのまなびの親、賀茂真淵先生  からごころから、きよく、はなれて、ひたすら、いにしえの心やことばをしらべてみよう。こういう学問は、わたしの先生、賀茂真淵先生がはじめたものです。  先生の学問がはじまるまえの世の学問は、まるでちがっていました。歌は『古今和歌集』とそのあとのものだけをしらべていました。『万葉集』などは、あまりにも、とおいもので、しらべられるとは、おもってもいませんでした。『万葉集』の歌のよしあしもおもうことはできませんでした。ふるいか、あたらしいかも、わからなかったのです。ましてや、そのことばを、いま、じぶんでもつかってみようなどとは、おもいつくこともありませんでした。  いまは、そのいにしえのことばを、じぶんたちのものにしています。万葉のような歌をよむこともできるようになりました。いにしえながらの文などを、かくことさえできるようになりました。これはひとえに、先生のおしえによるものです。  いまのひとは、これをじぶんで、できるようになったとおもっているようにみえます。けれども、なにもかもすべて先生のおかげなのです。  『古事記』や『書記』など、いにしえの本をしらべるときは、からごころにまどわされてはいけません。まずは、ひたすら、いにしえのことばを、あきらかにしなければいけません。いにしえのこころで、よみとらないといけません。こうしたことを、いまでは、だれでもがしっています。こうしたことも、先生の万葉のおしえのおがけなのです。  先生は、こんなにも、とうとい道をはじめてひらかれたのです。それは、ほんとうにすばらしいことでした。 ●「からごころ」 「からごころ」とは、漢民族の国のまねをしたり、とうとんだり、ということだけをいうのではありません。  みなさんは、どんなことでも、よいとか、わるいとか、ただしいとか、ちがうとかと、いいます。してよいこと、わるいことを、きめつけていたりもします。そういったことが、すべてみな、漢民族の本にかかれているままだったりすることをいうのです。  からごころは、漢民族の本をよんでいるひとにだけあるものではありません。本を一冊もみたことがないというひとにも、おなじようにあります。「漢民族の本をそもそもよんでいないひとには、からごころはうまれないのでは。」そう、おもわれるひともあるかもしれません。  けれども、わたしたちは、漢民族の国はなにもかも、よいとおもってきました。そして、千年あまりにもわたって、漢民族のまねをしてきたのです。からごころは、しぜんに世のなかにいきわたっていきました。いまでは、ひとの心の奥そこにしみついて、もうあたりまえのようになっています。  「わたしには、からごころはない」とおもっているひともあるでしょう。あるいは、「これはからごころではない。そうあるべき、きまりだ」とおもっていることもあるでしょう。けれども、そうしたことさえも、からごころからは、はなれられていないのです。  「ひとの心は、わたしたちも、ほかの国のひとたちも、おなじはずだ。よしあしにふたつはないのだから、べつにからごころなんて、ないのではないか。」すこしかんがえて、そのようにもおもわれることもあるかもしれません。  けれども、そうおもうのも、からごころからきているのです。とにかく、からごころというのは、とりのぞくことがむずかしいものなのです。  ひとの心には、どの国でもかわることのない、ほんとうのまごころもあるでしょう。けれども、漢民族の本は、おおげさなことばをつかって、さかしい心で、いつわりかざってばかり。そういうことがおおくて、まごころではないのです。  かれらが、よいとすることが、じつは、よいことではない。かれらが、わるいとすることが、ほんとうは、わるいことではない。そういうことも、おおいのです。ですから、「よしあしにふたつはない」ともいえないのです。  また、あるいは、そうあるべきだと、おもいとれるものもあるかもしれません。しかしそれも、からごころとしてはそうだというだけで、じつは、そうではないことがおおいのです。  いにしえの本でいわれていることをよくまなべば、からごころというものをさとることもできるでしょう。そうすれば、おおかた、こうしたことは、しぜんによくわかるようになります。けれども、おしなべて、みなさんの心の地はからごころです。ですから、からごころからはなれて、こうしたことをさとるというのは、ほんとうに、むずかしいのです。
本居宣長
本居宣長
日本

著者の概要

ジャンル

[ "哲学", "東洋哲学", "日本哲学", "日本近世哲学" ]

著者紹介

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。 契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。 本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。 本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。 寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。 宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり、小津家を継ぐが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。 宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。 宣長は、一時は紀伊藩に仕えたが、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している