職業としての学問
『 職業としての学問 』
マックス・ウェーバー
1917
西洋現代社会学

名著の概要

ジャンル

[ "社会学", "西洋社会学", "哲学", "西洋哲学", "西洋現代社会学", "西洋現代哲学" ]

テーマ

学問について

概要

この講演が行われた当時のドイツは、第一次世界大戦の末期であり、戦況は悪化する一方であった。そのような状況下で、学生たちは、「もともと神や哲学が担っていたような役割」や「あらゆる意味への問いに答えうる価値観を授けてくれるような超然的存在」を欲しており、学問の中に全能的存在を、教師の中に指導者の姿を求めるような期待感が生まれつつあった。 ヴェーバーは、学生のそのような期待感に対して、学問の意義を語ったもの。

目次

内容

まず、講演の前段では、アカデミックな職業人生に伴う現実的な問題を明らかにする。たとえば、学者を志す者が、果たして将来教授などのポストを得られるか、それともそうはならずに人生を棒に振ってしまうかということは、そのほとんどが、その人の研究成果ではなく、運や偶然で決まってしまう。また、運よく大学教員になれたとしても、研究者としての評価と教育者としての評価の乖離の問題などを説明することで、ウェーバーは、大学教員としての人生について学生が抱く幻想を打ち砕く。 次に、本段では、学問の動向を踏まえて、学問にできることと学問にはできないことについて説明し、学問をすることの意味に対して疑問をつきつける。近代の自然科学では、主知主義化や合理化が行われた("脱呪術化"・"魔術からの解放")。また、学問の専門領域が分化した("神々の闘争")。そのため、「真なる存在への道」という理想は失ってしまっており、もはや生の意味を学問に求めることなどできはしない。したがって、学問は、もはや人々に価値を示すことはできず、究極的には学問をする意味などない。 また、それと関連して、学問と政策の峻別をすべきである。したがって、教師は、自身の講義の中で、学生に自己の主張を説いたり、それを強制したりしてはならない(価値判断の回避("価値自由"))。また、学生をはじめとする若者が何らかの体験を得ようとするために結社の類を作ろうとする場合、そのような行為は、結局は小さな狂信的集団に陥るとも述べている。 最後に、講演の結びでは、学問が前段に述べられているようなものでしかないことを踏まえつつ、それでも敢えて学問に意義を見出そうとするならば、それは個人が「自己の立場の明確化」を助けることになるという。しかし、学問に伴う宿命、つまり自らが主体であり続けるということに耐えるという宿命を受け入れられないような人は、おとなしくキリスト教への信仰に戻り、非アカデミックな職業に就いて、そこで日々求められる役割を果たし、人間関係の中で生きるべきであるとする。
マックス・ウェーバー
マックス・ウェーバー
ドイツ

著者の概要

ジャンル

[ "社会学", "西洋社会学", "哲学", "西洋哲学", "西洋現代社会学", "西洋現代哲学" ]

著者紹介

ドイツの政治学者・社会学者・経済学者である。 社会学の黎明期のコントやスペンサーに続く、第二世代の社会学者としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメルなどと並び称される。 ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。 そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)である。この論文の中で、ヴェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。