『 論語 』
紀元前5世紀(不明)
五経
名著の概要
ジャンル
[
"哲学",
"東洋哲学",
"四書",
"中国哲学"
]
テーマ
世界について
人間について
人生について
儒学について
概要
孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて朱子学における「四書」の1つに数えられる。 ヨーロッパでは、中国大陸で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師により『大学』『中庸』と共にラテン語に翻訳され、17世紀にフィリップ・クプレによって出版された。中国の哲学はシノワズリの一部としてヴォルテール、シャルル・ド・モンテスキュー、ケネーといった思想家らに大きな影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与した。
目次
内容
512の短文が全20篇で構成されている。篇の名称は各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものであり章によってはその章の内容のことをいう。
学而第一(がくじ)
「学」についての記述、孔子の根本思想についての立件が多いため、熟読すると良いと朱熹は言う(集注)。凡そ十六章。
為政第二(いせい)
政治についての記述が多いとされる。凡そ二十四章。
八佾第三(はちいつ)
礼楽に関する記述が多く、この「八佾」も礼楽の行列の名前である。凡そ二十六章。
里仁第四(りじん)
「仁徳」に関する記述が多いとされる。朱熹は凡そ二十六章。
公冶長第五(こうやちょう)
名の通り孔子の弟子の公冶長との問答より始まることから公冶長篇と名付けられたとされる。この章の殆ど(最後の三章)が孔子と弟子との問答や人物評価が書かれている。凡そ二十七章。
雍也第六(ようや)
人物評論や「仁」と「知」の論が目立つとされる。凡そ二十八章。
述而第七(じゅつじ)
孔子の自身言葉や容態、行動に関した記述が多いとされる。凡そ三十七章。
泰伯第八(たいはく)
泰伯への称賛から、礼楽など、終盤には聖人などの構成とされる。凡そ二十一章。
子罕第九(しかん)
孔子の言行や孔子の出処進退に関する門人の記録が多いとされる。凡そ三十章。
郷党第十(きょうとう)
篇首が「孔子」で始まり、「子曰」という記述がないとされる。吉田(1960)は朱熹の集注をもとに十八章に分けた。
先進第十一(せんしん)
門人などの人物評論が多く、孔子が祖国の魯に帰国してからの門人との言行の記述があることから孔子晩年期がわかる。凡そ二十五章。
顔淵第十二(がんえん)
孔子と門人、君主が「仁」や「政」に関する問答は多く、篇首には顔回との「仁」についての問答から始まる。凡そ二十四章。
子路第十三(しろ)
前半は政治について、後半は善人や士君子や道徳についての問答が多いとされる。凡そ三十章。
憲問第十四(けんもん)
この篇首、原憲が孔子に「恥」について問いたが、これ以降の篇では「原憲」のことを「原思」と字を用いていることからこの篇はは原憲が書いたのではないか,または魯の国で編集したのではないかと吉田(1960)は考察した。凡そ四十六章。
衛霊公第十五(えいれいこう)
この篇は修身出処に関する雑言が多いとされる。凡そ四十一章。
季氏第十六(きし)
この篇は「下論」でも体裁が異なっているとし、「子曰く」とあったところが「孔子曰」となっている。凡そ十四章。
陽貨第十七(ようか)
この篇は孔子の出処進退に関する章が数章ある。世の中が衰え、道が行われないことを嘆いたり、当局者や門人に与えた警告も多いとされる。凡そ二十六章。
微子第十八(びし)
この篇は他の逸民の話が多いが、孔子に関係を持った人達の出処進退などが記されているとされる。凡そ十一章。
子張第十九(しちょう)
この篇の大体が孔子の門人たちの言葉のみ記されている。特に高弟の言が多く、孔子に類するような言葉などが多いとされる。凡そ二十五章。
堯曰第二十(ぎょうえつ)
この篇は凡そ三章であるが、聖人の政治や為政者にとっての政治的訓誡、君子の要訣など論語全篇に照応させたように見られると言われる。
孔子
中国
著者の概要
ジャンル
[
"哲学",
"東洋哲学",
"四書",
"五経",
"中国哲学"
]
著者紹介
春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。
孔子は四聖人の一人で、釈迦、キリスト、孔子、マホメット、以上の四人の一人である。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子の死後約四百年かけて編纂した弟子たちの言語録は『論語』にまとめられた。
約3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門八哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている(そのため、四科十哲とも呼ばれる)。すなわち、徳行(論語古義によると徳行は、言語・政事・文学の三者を兼ねる)に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。(その中でも子路と孔子のやり取りが論語のなかでは1番多い。)その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。